仏教の教えをプチ学習〜自分なりの「禅」

先日、アップル創始者スティーブ・ジョブズが亡くなった事は周知の事実だと思います。彼は生前、仏教を信仰していたそうです。仏教が、自身の家系に関係していることからこれまで親しみはありましたが、直接的にはジョブズの死のニュースがきっかけとなり、最近、「仏教」について調べてみました。


そもそも「仏教」はどのような宗教なのでしょうか?

仏教は、紀元前6世紀に北インドの王子「ガウタマ・シッダールタ」(釈迦;シャカ、釈尊、以下シャカ)によって開かれました。現在、世界に約4億人弱の人が信仰しているそうです。この仏教の基本原理は3つあります。「無常」「中道」「慈悲」です。

シャカが仏教を悟るにいたった経緯は、当時広く信じられていたバラモン教の哲学「ウパニシャッド哲学」の考えと、彼が悟りを開く過程から理解できます。
ウパニシャッド哲学」では、宇宙の真理として、人間は宇宙の中では自然の一部で、非常にちっぽけな存在に過ぎない。自然も含め全てのものは移り変わる運命になる。人間もいつか死に、若い人は年老い、権力者や財産家はいつか落ちぶれる。(「無常」)
これを理解すれば、自己中心的な偏った考えを捨てて、宇宙の真理に従い生きることが出来る。(「中道」)これが「ウパニシャッド哲学」です。


さて、シャカの悟りを開くまでの過程とはいかなるものだったのでしょうか?大雑把には以下の通りです。
彼は王家に生まれたので青年期まで贅沢な暮らしをしました。しかし、そのことに疑問を覚え、またいつかは落ちぶれるであろうという考えにも悩み、人間として行うべきことを見つけるために修行に出ました。ここで、彼は、苦行を行うことで、その答えを見出そうとしました。それは、食事を減らし、痛みを伴う、とても苦しいものでした。
ある時、彼はある村を訪れました。そこには、ミルクを運ぶ女性がいました。彼は、あろうことか、この女性にミルクを分けてもらい、それを飲んでしまいました。それは修行僧としてあるまじき行為です。しかし、この時、彼は悟りました。自分の行うべきことは、苦行ではなく、この女性のように、苦しんでいる人の助けになることだと。
ここから、他人に対し思いやりの心を持って接する、「慈悲」という考えが加わったということです。
また、シャカが説いた、この原始仏教は、経典も仏像も必要としません。実は師匠のような存在もいません。なぜなら、シャカは、自分の経験と同じように、悟りは自分自身の手で開くものだと説いたからです。

(ただし、現在、仏教世界に広がっているものは、長い年月の間に、各国の文化、事情により少しずつ変化し、多種多様です。これは、仏教が持つ「他者に対する寛容さ」という性質にも拠るそうです。)




ここまでは教科書レベルの話で、ご存知の方も多いと思います。でも、これではただの知識・教養に過ぎない。知識・教養は、実生活に取り入れてこそ意味が出てくると、私は信じています。そして、今回、私は仏教の基本原理を実生活に有用なものとして活用できていることに気づくことができました。


実は、最近、自身の健康、体力づくりのために、ジョギングを行っています。また、直接的な必要性があるため、英語も勉強しています。具体的な勉強として、主にテキストの反復音読を行っています。

ジョギングと音読。いずれも単調で、変化に富んでいません。初めは辛い面があります。しかし、途中から楽になり、むしろ楽しい気分を味わうようになります。ジョギングだと、ランニングハイと呼ばれますね。そして、これらをやめた後に、不思議と背筋がピンと伸びたような、すがすがしい爽快感を感じます。

今回、仏教についてちょっと調べてみて、ジョギングや音読は現在仏教でよく行われる「禅」に共通するのではないかと思いました。「禅」は、現在仏教の様々な宗派で取り入れられている習慣です。特に、私の家系はそのうちの「曹洞宗」という宗派に属することから、この宗派における「禅」の考え方を調べてみました。
かみ砕くと、この宗派では、「禅」を行うことで、その最中、人々の心に宿る仏の心に触れることができると説いています。これにより、清らかな心に気づき、生活の支えとなるそうです。

また、この開祖である道元は、禅について以下のように語っています。
「禅は足に強烈な痛みを感じる。しかし、慣れれば痛くなくなり、むしろ楽しくなる。苦行ではなくなる。」と。だから、ただひたすら座る。これを「只管打座」というそうです。実際、この英語音読の有用性を提唱している先生(国弘正雄氏)は、道元の説く「只管打座」をもじって、「只管朗読」と名づけています。

さて、今回強引ながらも私は、原始仏教においてシャカが唱えたように、悟りは自分自身の手で開くものであるならば、なにも「禅」にこだわらなくても、今の自分の「儀式」であるジョギングや音読を、日常生活の支えとしてとらえてもよいのではないかと思ったわけです。

こう考えると、不思議とジョギングや音読が、生活のよりどころに変わり習慣化される気がします。そして、より自分の宗教の本質が身近に感じられます。
(もちろん、まだ自分は不勉強の身なので、仏教を深く知るうちに、とらえ方が変わっていくとも思いますが。)


宗教は一見すると難しいし、誤解される一面を持っています。特に、無宗教国家とされる日本ではその傾向が大きいと思います。非科学的で不要なものと捉えられがちです。しかし、自分たちの日常生活と結びつけて、よい形で自分のよりどころとすれば、もっと身近で有益なものになると思いました。特に、仏教は他の宗教・思想に対して高い協調性・親和性を持っているので。


まぁ、結論は、引き続き、ジョギングをはじめとした体力づくりと、音読をはじめとした言語学習を日々の生活で続けていこうと誓います。…ということで(終)




※参考書籍・サイト
曹洞宗ネット SOTOZEN-NET
武光誠著; 知っておきたい日本の仏教
國弘 正雄、千田 潤一編集; 英会話・ぜったい・音読 【続・標準編】