映画「ノルウェイの森」を観た

 日本のみならず全世界で一大ブームを巻き起こし、いまだに読み愛されている、村上春樹を代表する小説。最近、映画化され話題に挙がった。しかし、映画館に足を運ぶことができず、今更になってDVDで観ました。


 実は、私は、自身の学部時代に、本作を一度通読している。その時は、自分の乏しい経験と想像力を駆使し、偏ったイメージだけで読んだ。めまぐるしい展開、並行して交わる女の数々、そして自殺者。そんな、自分の境遇とはかけ離れた主人公、ワタナベに、当時の自分はほとんど共感できなかった。一方で、矛盾を抱えている、モラトリアムの中にいる、そんな負の側面に多少共感した記憶がある。そして、読み終えた時の、ハッと日常生活から隔離された薄暗い世界に引き込まれていた自分、しかし何か自分の隠れた側面―イドのようなもの―を投影しているような、何ともつかみどころのない、奇妙な印象を持ったと記憶している。
 と言っても、読んだのは、もう何年も昔のことで、きちんと読み説いている方とは違い、その記憶はおぼろげなものだった。だから、世間の話題に乗る、原作の復習という、なんともふしだらな動機で、本映画を見ることにした。


 率直な感想は、素晴らしいものだった。最近、この手の人間様に焦点を当てた作品を見ていなかったこと、原作の記憶がおぼろげだったことが、よかったのかもしれないが、印象に残る作品だった。


 特に良かった点は、ワタナベと彼を取り巻く人物との対比が表現されていた点、そして、沈黙の場面が効果的に使われていた点だ。
 ワタナベは、学生運動に参加しない、本ばかり読んでいる、一人の女、直子に没頭していくが、それにも関わらず様々な女と関わる、そんなつかみ所のない自分についてひどく悩む、でも生にこだわる。一方、キズキや直子は、自分に絶望し精神的に荒廃して自死してしまうし、永沢さんは自分の行為を全く自省しないし、その彼女、ハツミは永沢に振り向かずとも一途な情熱を注ぎ続ける。そんな、ワタナベと他者との対比が上手く感じられた。
 また、製作者からのありきたりなメッセージが提示されることなく、人間の儚さ、矛盾、無力さを残酷に表現するだけ。これが、観るものに考える時間を与える。この作品で多く登場する直子との濡れ場シーンは、性をあまり感じさせるものでなく、この点は直子をうまく体現できていたのではないかと思った。


 逆に残念だった点は、直子のキャスティング展開の早さの2点。
 二十歳前後の直子を菊池凜子が演じるのは無理があった。菊池凜子の演技力は年齢を超えるものであったけど、やはり限界があった。だからか、緑からは、年相応の二十歳前後の若々しい雰囲気を感じ取ることができた。ワタナベを演じた松山ケンイチがうまく役に入りこんでいて、さすがと思った。
 展開が早すぎる点については、私自身は細かい場面を忘れてしまっていたので、それほど気にならなかったが、丹念に読み解いている人にとっては、これは大きな問題だったとは思う。


 以上が、原作をろくに理解できていない、人間を扱った作品にあまり触れていない、私が、本作を観て感じた感想です。だから、これで満足するのでなく、ここから本作品をさらに読む必要があると思った。
 本作品は、映画という制約上、またすでに地位を確立していた名作品をリメイクするという条件の中でも、かなりがんばったと思う。それは監督の原作に対する尋常でない想いが、そうさせたと感じずにはいられない。ただ、やはり本映画だけで原作が理解できるとはとても思えない。
 だから、再び原作を読み返し、そこに描かれた人間模様をもっと読み解くべきだと感じた。さらに、最近、人間について深く扱った作品を読めていなかったので、それらにも時々触れるべきだと感じました。


 最後に、直子を失った後にワタナベが言う台詞を。

悲しみを悲しみ抜いて、そこから何かを学び取る事しか、僕らにはできない。そして学び取った何かも、次にやってくる悲しみに対しては何の役にもたたないのだ。

 これが、人間…。懸命に取り組んでも、次の困難に対しては決して役に立たない。でも、また困難に四苦八苦する。それが人生だと思うと、逆に、困難に立ち向かう勇気をもらえる気になるのは私だけでしょうか?